Skip to content

箱根丸出航す

2024年3月20日  写真は佐藤博の独逸留学に行われた九州帝国大学航空会の壮行会の珍しい写真である。会場は福岡市では有名な「ブラジレイロ」。今?で言う純喫茶?カフェ。テーブルに昭和12年頃のキリンビールボトル。一輪挿しに可憐なラッパ水仙。佐藤博が起立して挨拶を述べるところである。

さて、昭和10年になるころの日本はに「列強とのかかわり方にきな臭い」ものを強く感じており、いち早く軍事産業の開発を進めるところであった。国内の技術は進んではいたがどうしても世界の最先端を走る独逸の開発力のノウハウが欲しかった。といって軍関係や軍事産業界から出向は列強の印象が悪くなる。そこで「学」部門に目を向けざるを得ないことのなっていく。日本からは東京帝国大学の航空部やプロペラ研究の権威を送り出すなどを実行していた。スポーツのような軍事練習のよな滑空機の情報を習得するのに九州帝国大学の佐藤博助教授に視線が向いたことは「アッパレ軍部」とでも言っておこう。昭和11年になって佐藤博に独逸留学の打信が入る。同時期美津濃スポーツが滑空界に精力的に動き始める。美津濃から渡欧前に高性能滑空機のデザインを頼まれ、無事納品。佐藤、ホットとして渡欧となるのであった。この時の話をされる佐藤博先生は「イヤー、夢に見たドイツを前に学生諸君に感謝と夢の実現を話したが、頭の中は滑空機がぐるぐる飛んでましたね」と。

更新 2024年8月1日

佐藤博先生の独逸留学に関してはあまり情報が残されていない。でもこの独逸行きは大きなリスクもあった。この昭和13年という年は日本近代史を紐解くと、日本が世界に向かって大きく動き始めたころになる。まず時代背景からすれば、かなり危険を覚悟しての渡欧であったはずだ。当然ドイツでは国民社会主義の活発な運動もおきていました。

海外からは「日本要注意」の目が厳しく、日本は独自の国力を海外に向けてアピールするのに「神風号」を欧州まで飛ばすなどの実施を行った年でもあった。当時アジア諸国ではここまで力がある国はなかった。

このような昭和13年4月15日に佐藤博先生は神戸港から日本郵船の箱根丸に乗船されたのであった。この3か月後には中国大陸で盧溝橋事件が勃発し日支事変に入っていくのである。当時の欧州行きはウラジオストックからシベリア横断鉄道で1週間かけてモスクワに行くのであったが昭和13年ではこのルートの使用は帝国日本では禁止となっていた。

ここで佐藤博先生の詳細な行程を見ておこう。諸処の読み物では、神戸から船でマルセイユへ‥となっているが果たしでどのような寄港地を通ってフランスへ入ったのかを調べてみた。実はここには重要な課題が潜んでおり、どうしても確実なマルセイユ上陸の月日が欲しかったのである。

この調査には現日本郵船㈱様から多大な支援を賜ったことを書き記しておく。尚帰路の航路日程も明確に残っていたのでサイトの「鎌倉丸乗船」で公開したい。昭和13年4月の箱根丸は第一出航は横浜となってる。

横浜→名古屋→大阪→神戸(4月15日、佐藤博乗船)→門司→上海→台湾クールン、ここは臨時で寄港→香港→シンガポール→ペナン→コロンボ→アデン→スエズ→ポートサイト→

ナポリ→フランス・マルセイユ着昭和13年5月23日。行程は38日間でした。

ここで一つ疑問が出ました。佐藤自叙伝では5月24日マルセイユ着と書かれています。この1日の違いが後の佐藤博行動にすごく影響が出るのでさらに詳細な調査を行いました。この差違には「なるほど」の回答が出たのでお伝えいたします。日本郵船は箱根丸は5月23日にマルセイユ着。夜の到着でありますが午前0時前の沖投錨で朝まで待機しています。

つまり運行上は5月23日マルセイユ着。開けて早朝に接岸し、上陸で5月24日となるので佐藤博先生が「5月24日到着」と書かれたのでしょう。

さて到着した当日パリ経由のベルリン行にのったでしょうか?ここはわかりません。マルセイユからパリ経由で独逸入国の鉄道路線は遠距離です。マルセイユで1日旅の疲れを癒されてもおかしくはありません。ベルリン着が5月28日と書かれています。つまり強行軍の移動であったように感じました。そこには夢に見たドイツが目の前にありますので佐藤先生の若さで、硬い座席も苦にならなかったはずです。軟弱な先生ではありませんでした。芯に流れる鍋島藩「葉隠れ精神」が生きている屈強な先生でした。

佐藤博九州帝国大学助教授、1937年5月28日ベルリンに立つ。ここから日本の新しい滑空日本が始まっていくのであった。