更新 2024年8月18日
8月14日の写真説明です。これは有名なGünther Groenhoff(ギュンター・グレンフォフ)の雪山滑空の事故写真です。ギュンター・グレンフォフはスイスのユングフラウヨッホの氷河からの滑空に挑戦しました。
それはある意味とても危険な挑戦でしたが、残念ですが危険な度合いを誰も理解できていませんでした。反対に氷河からの発航は良く滑るので初速も早いだろうという感覚であったようです。自然界の低温に潜む注意点が見えていなかった。実は滑空機のスキッド部分が氷河と凍結して密着状態になっていることを誰も気づかなかった。
発航はいつもと同じバンジージャンプ式のゴム索で引くやり方です。この時もいつもと同じように第1段階でゴム索が氷河上面から浮き上がるまで軽く引いていました。かたや後部で滑空機を抑える索を握るストッパー員は、滑空機自体にテンションがかからないので、まだゴム索が引っ張られていないという錯覚に入っていましたが実際はわずかですが滑空機は地上滑走できるくらいのテンションはかかっていたのです。ではなぜ後部のストッパー員は押さえの索をしめていなかったのか。それは滑空機が引っ張られていたにも関わらず、氷河と凍結していたので滑空機が静止状態になっていたからでした。
バンジー担当の複数名がゴム索をより以上張り始めると、スキッドが氷結していた滑空機が突然前進してしまったのです。そうでしょう、後部のストッパー員が止めてなかったのですから。
機体はズルズルと急斜面を滑り始めます、数名が翼を抑えたりするのですが、皆が滑る始末で、おまけに行く先に大きなクレバスが口を開いているのです。ここに落ち込むのは死を見ます。氷河を滑り落ちる滑空機を止めるすべがありません。前方には大きなクレバスの裂け目。滑空士は対地速度を見ながら前方の障害を確認し、クレバスに落ち込んでいくか片やクレバスをジャンプで飛び越えるかを判断したでしょうね。グレンフォフはクレバスを通過しますが、たぶんノーズは越えたが尾部がさがっていたのでしょうね、クレバスの渕で水平尾翼の右を全損で脱落させてしまいます。
さて機体のファフイニールはその後どうなったかというと、初速速度はなく滑空状態に入れず、ほとんど墜落状態で降下しながらインターラーケン市郊外の草地まで機体を引っ張っていき無事接地。これは不時着と言えるものではなく「離陸前にすでに墜落の状態にあった」が正解です。日本でも同じような尾翼破損事故で一命取り留めた滑空士がいましたね。日本ではこのドイツの名滑空士ギュンター・グレンフォフはあまり情報がありまがウキペデイアで検索ください。
更新 2024年8月14日
佐藤博史資料の解析はとても困難を極めるのである。日本には少ない情報の資料が多すぎるのである。それは仕方ないことでもある。滑空の本場である独逸で入手した2年間の短い時間で精力的に集めた情報であり、その中身がこの日本で出てくるにはあまりにも時間が経過しているのだ。おまけに情報は時間とともに多くの関所をくぐることで、少しの加筆、見落としが重大なミスになってしまったり、元ネタが消えて新しい情報に化けてきたり。
今回日本で不確実な説明を探すより本場ドイツで少しでもクリアーな解説を探せることに出くわし、今回もその流れで以下の写真を貼っておく。
情報は佐藤博助教授、独逸で見つけた冊子の写真をカメラで撮影。ただし冊子の解説ページが見つからない。ゆえにこの写真からわかることをドイツに尋ねているところである。回答が届くのを待つことにしたい。
更新 2024年8月8日
この写真が物語るものはとても重要なことが見えますが今まで一切公開されていません。今回佐藤博助教授独逸留学の史資料があったから表にでた、いえ、今まで多くの方々が閲覧してこられにも関わらず誰も目に留めなかった「超貴重な史資料」と見ました。
貴重なところの第一は、機体は独逸製ハインケル116・J-BAKDで乃木号。機体の詳細はウキペデイを参考ください。なぜ、この時期ドイツに日本の乃木号がいるの?果たして駐機場所はどこ?必ずどこかに関連記事が残されているはずと思って調べました。
この写真、佐藤先生と空港のロビーでお二人が写っています。別の写真ではハインケル機体の写真撮影をかなり間近で写しています。航空機整備の貴重な場面が撮影できたということは一つの事実が見えます。撮影者はエプロンに入れたこと、乃木号に近づいて整備の日本人を撮影できたこと、これらの事から、この機体に近づけることができた方の撮影ですね。多分写っている方と佐藤先生の関係が近いのでしょう。どこから誰を運んできたのか。乃木号は1938年昭和13年4月にドイツから日本へ乃木号と東郷号の2機が空輸されています。その後独逸まで飛行した記録はないし、公式な記録は記載がありません。多分日本へ空輸するときではないかと考えます。そこで写真の人物が写っている空港での写真や、独逸国内で佐藤先生と行動を共に歩かれた写真などを精査していくときに襟バッジに見覚えがあるデザインを見つけました。「帝国飛行協会」の方とわかり、現在の日本航空協会に打診をかけてみたのです。
やはり驚きの回答でした。なまえは四王天延孝、お名前は耳にしてきましたがお顔は初めて知ったところですとのこと。帝国陸軍航空部畑をくまなく歩んできてあります。「ところで閣下はなぜドイツに」という反対にこちらに質問がくる始末。まったく記録に残っていないのでしょうね。
大きな目標は東京オリンピックに滑空機競技を参加させることで、佐藤博先生がドイツの説明会で即答できるための政府の「懐刀」的役目が見えてきます。佐藤先生は欧州で行われた東京オリンピックに関する滑空競技に関しての講演は大日本帝国代表四王天延孝閣下の総代理として参加という立場でした。「全権委任」という立場です。大変な重責を背負ってあったのです。
今現在の調査では四王寺閣下が何時、どのルートでドイツに入ってこられたかはわかっていません。佐藤先生のメモ書きには「四王寺閣下をライプチヒ・ハル空港にお出迎えする」という一行を見ております。乃木号でこられた?ハルで落ち合って乃木号を見送る?果たして真相は??。
更新 2024年8月3日
佐藤博助教授は限られた滞在期間中に積極的にフイールド研究に出かけてあります。ベルリン工科大学でしっかり勉強され、その重責をいやす休日も屋外に、遠方に出かけ滑空という世界の必要な見聞を心がけておられます。今回、多くの不祥な写真をドイツに精査頂くと佐藤先生の「休日の過ごし方」が見えてきました。
それはグライダーの滑空見学がワッサクッペに限らず、日常に飛び交う近郊の滑空場に出かけあったということです。ドイツからのお話は「多くの写真にベルリン近郊に点在した小規模的な飛行場の写真が確認できます」というお話をいただきました。このコーナーでご紹介しておきます。
ベルリン近郊の滑空場兼飛行場の一コマです。当時のウインチ操作を見学されています。