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R-6 前田航研工業

新規 2024年6月21日

 前田航研工業㈱

序文

多くの資料が手元に眠っている。誰が何と言っても日本滑空界を引っ張ってきた前田航研である。どのようにまとめると皆様が前田航研工業や前田建一をわかっていただけるのか見えてこない。筆者は幼少時の物心ができたころから前田航研と共に生きてきたような生活環境があったので、点と点を結ぶことができるのだが・・。

時系列にしてもあまり意味が無いので大きく括ってみることにする、前田航研という舞台か、ステージというか、人材も含めて前田建一没の後まで追いかけながら、その滑空機を作ってきた背景やできた機体を公開しておきたい。

現在手元にあります資料の中から、公開可能なものになりますが(製作機体関係は一部になります)前田建一(前建)はとにかく話題の多い親父であったがゆえに多くの逸話を残していた。世間では前建の顔の一部しか評価されない文字がみえるのだが、それは間違いだ。関西弁をお借りできるなら「エライオッサン」であった。今まで表に出ない「秘話や逸話」、「貧乏の中の明るい集団」、「梅干し談話」「大工の哲学」、意外と「女性にもてた話」や、「仏壇と日本刀」など絶対表に出なかった話にペンを走らせてみよう。その中から「前田建一という男の風」をつかんでいただければ幸である。今回幅広く前建の滑空界の過去の人脈を探りながら、彼を一番理解していたのは伊藤飛行機㈱の伊藤音二郎ではないかと気づく私がいた。滑空機に関しては未公開の写真もでてきますのでお楽しみください。

更新 2024年6月22日

 過去日本の滑空機を扱った書籍は何度か見る機会はあった。必ず登場するのはなんといっても九州帝国大学佐藤博と前田航研工業の前田建一の名前である。しかし不思議と前田建一の素顔は見たことが無い。まったく名前だけが走ってきた感じが強い。

そこで今回前田建一の素顔に迫ってみよう。そこにはまたまたドラマがあったのだ。地元福岡の放送局にRKB毎日放送がある。ここに全国民間放送局にいちもく置かれる木村英文というデイレクターがいた。通称「受賞おとこ」というあだ名もあった。彼がいったん目にしたストーリーは視聴者に訴える力や考えさせるものなど多くのメンタリックな力を画面に描ける独特の才能があった。その彼がこの前田建一をスクリーンに引き出す企画をテーブルに乗せるのである。この銀幕の世界はマエケン(前田建一)が一番避けてきた世界でもあったが過去の滑空機の記録や型破りの生き方は昔も今もジャーナリストにとっては宝島であったのだ。木村英文はおぜん立てをする、会社には無理を通してマエケン役の役者は超一流を選択するのだが予算も破格のライン。そして独特の前田の生き様を黙って演じるのは伴淳三郎に白羽の矢が飛ぶ。原稿を読んだバンジュンは、「これはやりがいがある」と言い、早速博多で顔合わせに入る。バンジュンは屈託なく話し込んでは前田建一の匂いや風や多くのイメージをつかんだ…ように見えたが、宿題を持ち帰っての回答は「とても僕では前田建一の味が出せない、彼の持ち味は静ないで立ちでありながらあまりにも強烈だ、自分は描き切れない」という考えもしない回答が飛び込んできたのであった。

写真は前田建一自宅で伴淳三郎がデンスケを前に話し込んでいるところだ。

写真左が前田建一。右に俳優伴淳三郎。

写真下。多くの滑空機を生み出した前田航研糸島の北原工場の極一部。手前の古い建屋。

この写真には谷口次郎市の直筆の書き込みが見えた。

「建立、昭和15年 在りし日の前田航研工業北原工場 写真は昭和59年8月沢柳氏写す。喜びも悲しみも私の生涯の思い出に。

とかかれていた。

更新 2024年6月23日

前田建一が亡くなって数回の「偲ぶ会」が行われた。その多くは故谷口次郎市の呼び掛けであった。彼の気持ちは痛いほどわかる、そのような歳に入ってきた私がいる。都度多くの参加者があったようだ。前田航研の昭和18年、19年は従業員数2000名を超えていた。工場も糸島郡の北原(元岡という方もおられる)、千里とこの2か所で多くの滑空機が製造されていた。特に千里工場の話は今まで誰も書いてない。多分今回が初めて皆様が耳にされるのではないか。昭和35年ごろまではまだ家屋が立っていたが、荒れていた。室内の畳からキノコがたっている様子が脳裏に残っている。またこの敷地が凹の状態で、裏の崖にトンネルがほってあって、ここでも工員が作業したという話を工員から取材で聞き取っている。別の証言では、女子行員は近辺では見つからず、鹿児島、南の離島からもきてあったそうだ。さてこの前田航研の工場に占領軍が入った話が残されていないし、私が耳にした記憶もない。実は糸島の中で「前田さんの工場があったので終戦後ここに忍び込んで多くの物資をコソッといただいた」、という怖い話も出た。何が一番役に立ったのか聞いてみたら、木材は風呂の燃料にできたし、翼に貼る布は川にさらして柔らかくして、洋服に仕立てて売ることができた、という証言を得ている。米軍はどのような検閲に入ったのであろうか。

戦後前田建一と谷口次郎市は佐賀県唐津にあった「昭和バス」から仕事を受けて、凄いことを行っていた。これは別途証言も入れて書き残しておく。

米軍検閲の話であるが、今回取材は朝鮮半島まで及んでいる。今の韓国である。帝国日本の敗戦後の朝鮮半島は悲劇の舞台になっていた。なぜこの話が表に出てこないのであろうか。当時米軍がすべてを抑え日本軍、民間人の早期離国を行ったが、現地に残った多くの不動産はじめ動産には全く関与してないのである。残される朝鮮人の権力者に「自由に処分して可」という事であったそうだ。あとは早い者勝ちの分捕り合戦。ただし、ビルなどの構造物は半島内の権力者同士の争いで終わっていた。築きあげた日本人は「我が命」だけを抱えて手ぶらで本国日本にもどったのだ。滑空機が取り持つ縁で当時の苦難が取材ができたことは大きな収穫であったが詳細な記述ができないことが心苦しい。忘れまじ敗戦の悲劇。

上記写真。故前田建のドキュメントが放映された後に行った「マエケンをしのぶ会」を新聞が記載。西日本新聞

          上写真説明 前田建一を偲ぶ会、開催の音頭。

        写真上。右から河辺忠夫、佐藤博、田中丸治廣、木村貫一

         写真上。右から沢柳喜助、谷口次郎市、木村貫一

           写真上。左から前田津奈、木村貫一、佐藤博

         写真上。左から田中丸治廣、一人置いて谷口次郎市

           写真上。左から谷口次郎市、沢柳喜助

       写真上。 左から佐藤博、河辺忠夫、一人置いて蔵原三吾

            写真上。左から木村貫一、田中丸治廣

             写真上。 左に田中丸治廣

田中丸治廣は実質佐藤博の片腕となりその力を発揮している。完全な黒子として、静におとなしく、佐藤につかえた。後年朝日新聞が学連使用に複座ソアラーの設計を九州大学佐藤博教授に発注するが、佐藤は自信もってその製作までを引き受ける。この時佐藤は前田建一に一言「今回の滑空機は田中丸君に任せる」と伝えたそうだ。今までの流れを考えて筋を通したのだろうし、機体構造が過去の九帝5型、7型、11型を踏襲しているのでここは佐藤の責任で作っている。その機体が小倉曽根飛行場をベースにして訓練に励む「阿蘇G」である。この機体の検査官が奇遇にも頓所好勝であった。彼の取材は別項でお話したい。つながっていくのですよね滑空界の絲。

更新 2024年6月30日

前田津奈、鹿児島おごじょです、こてこての甘えん坊で頑固な前田建一を看取るまで仲良く過ごされました。筆者もすごくかわいがっていただきまた訪れる若人に接するそのやさしさはあまりにも美しかった。どんなに苦しいときでも、玄関をこぐったらそこからは親子のなか、外の親戚というようなのつながりがあり、何というか若人の悩みの吐き出しを前田の母さんが納めてあったようです。素晴らしい話は後日。

写真下  伴淳三郎が映画撮影で訪れた前田航研工業糸島の元岡工場、または北原工場と言っていた。ここで玄関先の看板を眺める。

元岡工場の内部です。撮影は昭和30年ごろと思います。奥に見える明るい部屋が図面室でした。馬に横たわるは駒鳥。