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③姿を見せた史資料

これはまた超貴重な史資料です。佐藤博個人の史資料の中にまぎれこんだのか、前田航研制作のク―10に関する開発の記録簿が見つかりました。河邉は少し身の震えを感じながらページをめくったところです。本記録簿は試作3号機の改造・手直しに関する記録簿ですが苦労の多くがその開発の難しさを文字として図面として残しています。でもなぜ佐藤資料の中から出たのでしょうか。前田航研の設計全般を見ても強度計算ができる人物が見あたりません。まず一人も見出すことができないのです。そこに存在してのが九州帝国大学の佐藤博率いる門下生が学習実体験を兼ねた知恵者であったことが見えてきます。このような関係の相関図は当時の日本ではどこにもありませんでした。ドイツとつながった佐藤博、九大帝国大学を舞台に公で動けた佐藤にくっついた前建(前田航研社長前田建一)、佐藤博は研究の結果を見れる工場を持ち、前田は開発の基本を担う工学博士を抱えるという超理想な体型が延々と継続できたのです、戦後もこの関係が崩れなかった。

2024年3月17日  イヤイヤ、これはまた素晴らしい資料だ。グライダーのフライトシュミレーターである。長年滑空界の世界の資料に目を通してきたが、このような物見たことが無い。素晴らしいに限る。さて、どのような解説で挑んだらいいのか途方に暮れるところだ。まず発案がどんな流れか?設計は何処の誰か?この2点が重要だが大きなヒントがある。写真バックに移りこんだ滑空機・・美津濃301型で大阪美津濃工場で完成。基本設計、本設計共に九州帝国大学の佐藤博。佐藤が独逸留学が決まって早急に設計に取り組んだ記述は目にしていた。佐藤資料の中にドイツの佐藤博と美津濃の某氏の往還書簡も見つけている。さて、この滑空機フライトシュミレーター機の特徴が見える。教官は大きく仕上がっている3舵ぬ動きが目視できる。操縦者は翼が後部あり、自分の操作で動く舵の動線が確認できない。それを実視できるように操縦者の眼前に模型の滑空機を作り付けその舵の動きがすべての舵と連動させているのである。おまけにその模型のデザインが美津濃301型となっているなど憎い。「からくり操縦機」とでもしておきたい。現代でも役に立つところも感じないこともない。文責河辺。