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⑤レーンの空と

レーンの空と・・・ワッサクッペです。いにしえのグライダーマンの夢の聖地。

ドイツが世界第一次大戦で敗れたあと、世界から見放され、後ろ指刺される中で毅然として無動力飛行を黙々と研究し改善し、悔しさを高揚しながら泥まみれで遊び研究に没頭したのがこのワッサクッペ。ドイツ語の発音を文字に移せませんよね、難しい。耳にするとブアッサクッペとも聞きとれます。

実は私の義理の兄は前田航研の前田建一を師と仰ぎ、マエケン師匠が行くことが無かったワッサクッペを訪れます。当時金もなく安価なナホトカ航路で横浜港からバイカル号でナホトカにわたり、シベリア鉄道で9000キロ先のヨーロッパを目指します。今は80歳を過ぎましたが、昔の情熱家は実行が伴う恐ろしい日本人ばかりです。さて、佐藤博史資料には独逸、イタリア、ポーランド、イギリス、スイスなどのビンテージ滑空機の写真が出てきましたが機体判明がなかなか。また面白いことに昔の航空雑誌の「航空朝日」や「航空時代」などのグラビヤを飾った独逸滑空機や独逸航空機工場、ヒルトの学校や工場写真がすべて佐藤博が現地で撮影したその写真が採用されています。元写真が多く出てきました。今回どの写真から公開すべきか迷っています。河辺新一。

佐藤博撮影。 第1回公開はワッサクッペに集まる、滑空機トレーラーの写真の一部です。佐藤の写真を閲覧して感じるのは「美しき滑空機の全体写真が少ない」という内容です。多くはその機体のパーツ写真が主に見えます。さすが工学博士の視線を感じます。佐藤は晩年「滑空機は設計していく途中でそのフォルムに出くわすのであり、最初から全体図など浮かんでこない」と話しています。トレーラー写真が多く出てきたのは、日本でも必要になることを頭に描いたのでしょう。この写真をどのようにご覧いただけるかは自由ですが、1937年に欧州では運搬手法がここまで発展していたのですね。もっと驚くのは1935年にフランスで初飛行したAVIA 40pがレーンで飛んでいたことです。この機体フランス滑空機のベストセラーで量産された優秀機。私は分解写真ですがここで初めて噂の主翼を確認できたのです。「翼根から翼端まで直線のテーパー」という話は耳にしてきましたが写真は初めて見ました。機体のお話は別項でお会い致します。まずはトレーラーの仕組みをご覧ください。2024年2月18日記河辺。

1937年昭和12年代に欧州で使われた滑空機専用のトレーラーです。当時日本ではどのような運搬がなされていたのでしょうか。トレーラーの特徴は滑空機そのもで、鋼管防水帆布張ですね。佐藤博撮影ですが上記のトレーラー正面の写真で、収納主翼の固定に「主翼取り付けヒンジ」をそのまま利用する構造が見て取れます。主翼断面が見て取れます、美しい曲線は例のゲッチンゲンタイプ。

次に屋外で日光浴の屋外ベッド。昼夜間温度差が激しいワッサクッペの草原は朝の露がひどいのです。夜はベッドにテント貼っていたのでしょうね。ワッサクッペには併設される宿泊設備のホテルもあったのですが、参加団体ではキャンプも仕方なかったのか。ただし火の使用は禁止ですので、食事は宿泊棟のレストランと決まっていたようです。

ウインチですね。後輪駆動軸からドラム回転軸につながっているのでしょうね。走行車タイプですので自由に動き回って引っ張ったのでしょう。写真に写っていませんが車両後部に佐藤博が立っているのですよ。

どこのお国も同じようなことが・・。佐藤先生のアングルにホッコリと。滑走台車ですがソリを載せる台車の中心部に臍が出ています。両脇のガイド2点とヘソの1点、、つまり3点支持で安定させていたようです。このようななんでもない写真に意外な構造を見ることもできます。