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⑥九帝型シリーズ  

シリーズ 第1回

機体名称 佐藤・前田1号
設計・九州帝国大学 佐藤博助教授
制作・九州航空会・前田工作所・九州帝国大学佐藤博助教授門下生

解説をご覧いただく前に。

これからの解説の中で諸先輩や恩恵をいただいた方々に敬称略となっていくのをお詫び申し上げる。佐藤博助教授が「佐藤博」、「佐藤」となっていたり、九州航空会の前田建一社長が「前田建一」「前田」「前建」となっている。

写真は佐藤式1型である。生写真であるがとても劣化が厳しい。

またの名を佐藤前田1号ともいう。

誰とはなく「九帝1型」と書かれる書物も目にするのがある。

しかし佐藤博の書き残した記述や九州帝国大学の滑空機記録には「九帝1型」

(九州帝国大学式1型)という文言を見いだせなかったのも事実である。

佐藤博の滑空機製作からすれば九帝1型というには多少無理を感じるところがある。

冠が「九帝」となればやはり九州帝国大学で作られた純粋な機体を描くのであるが、

この1号機、誕生が多少複雑になっている。

たぶん佐藤博はそのところを意識していた感触が見える史資料と向かい合っている

今がある。さて話をもとに戻しましょう。

佐藤前田式1号機、多くの夢を引き出してきた初歩滑空練習機とでも言わせていただきたい。実に滑空回数120回の飛行に耐えた機体である。昭和6年1931年7月に佐藤は九州帝国大学の製図室でそのトレース紙に力を込めて横一直線に鉛筆をはしらせた。佐藤式1号機の作図の始まり、ということは九州帝国大学の滑空機歴史の幕開けになるのである。

図面は順次前田工作所の手元に学生が持ち込み、前田ビル3階で「あーでもない、こうでもない」という中で持ち寄ってきた資材でなんとか形づいていくのであった。

昭和7年1932年福岡市柳橋の前田ビル3階で同年4月に完成。早急に前田ビルから大学に移行し組み立てに入る。4月25日九州帝国大学工学部裏の箱崎松原の空き地において試験飛行を成功する。実はこの時期佐藤は1号機の図面を書きながら、先読みというか次なる滑空機の図面を横の製図台で鉛筆を走らせていたことは誰も知らない。

1号機を追いかけるようにして、その欠陥を見直しながら船をかぶせるセコの姿が形づいていた。さて、1号機の試験飛行は九州航空会所属の福岡県浮羽郡の二級飛行士志鶴忠夫で飛んでいる。高度30メートル、時間にして約1分。すべてこの1分が日本の滑空界を引っ張っていくことになるとはだれが予測できたであろう。

実は寄せ集めの材料やドイツの写真集から分析して作った機体が例の有名な九帝3型十文字号の基本であったこともあまり知られてないのも事実である。

1号機完成で航空局より堪航証明(型式証明)が下りてくる「J-BBEH」であった。

        佐藤前田式1号機の初飛行の時

追記

この1号機試験飛行で志鶴忠夫は貴重な体験を佐藤に残している。

  • バンジーコードで瞬間に発航するとき、今の座椅子では上半身の安定が不安だ。
  • 腰の縛帯だけでは危ないと思う。
  • 発航の時、操縦桿にしがみつかなくてもいいような工夫も必要
  • 安定飛行に入った時に片手は機体のどこかを握れる形が欲しい。

テスト滑空士の仕事は多くの項目があります。飛ぶ前から、つまり運搬、組み立て、飛行、着地の一連の流れを細かに記帳、飛行中はその感想、動線などを分析書き残すという作業に追われます。今回の試験飛行で上記①~④までが書き残されていますが、もっと注意が出ていたはずです。志鶴はそれが十分に解決された2作目の機体「九帝3型」であったからこそ、自信をもって、十文字ヶ原から別府までの空輸に挑戦したと考えます。

         この1号機には大きな記録は残されていない。

あくまでも初級練習機として、素人学生の滑空研究や操縦練習に酷使され、その使命は確実に果たされ、飛行回数120回を超えてその使命を終える。

佐藤博が思ってきた、学生が作ることで身につくもの、飛ばすことで覚える知恵などは大学であればこそやらなければいけない研究課題であった。記録などはまだ頭になかった佐藤博助教授であったのだ。

しかし、思わぬところで記録飛行に出くわすときがやってくる。

写真右は佐藤・前田1号機。左に製作2番目の九帝3型が翼を休める。いずれも1932年昭和7年9月の大分県別府郊外の十文字ヶ原にて。語り部Shinshin  次回に続く